人はなぜ生きるのか。生きる目的とは、幸せとは何なのか。

「生きる目的」って答えられますか?

何が自分にとって「幸せ」なのか答えられますか?

 

僕は生まれてから29年経ちました。

今年で人生30年目になります。

29年も生きていると、時々思うことがあります。

人はなぜ生きるのか

誰しもが一度くらいはそう考えたことがあるのではないでしょうか。

 

「なぜ自分は生きているのか。何のために生きているのか。幸せってなに?」

もしかしたら今回の記事は、不思議な精神世界の話をしているようにも見えてしまうかもしれません。

ですが、常に何かを考えている僕の思考を、ただ書き綴っていくだけです。

特定の思想への誘導等は一切行っておりません。

僕なりの考えを書いていきますので、それを読んで少しでも皆さんの参考になるように役立てていただければ嬉しいです。

 



人は「幸せ」になるために生きている

僕なりにいろいろと考えた結果なのですが、人はみんな幸せになるために生きているのではないかと思います。

ではそうなってくると「幸せとは何か?」という話に繋がってくるわけです。

 

「幸せ」とは何か?

「幸せ」という言葉を辞書で調べてみると、以下のような意味であることが分かります。

 

[名・形動]《動詞「しあ(為合)わす」の連用形から》

運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。「思わぬ幸せが舞い込む。

 その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。「幸せな家庭」「末永くお幸せにお暮らしください」

 めぐり合わせ。運命。「―が悪い」

 運がよくなること。うまい具合にいくこと。

 物事のやり方。また、事の次第。

出典:デジタル大辞林

 

今回の場合では2番の意味合いで使われるような気がします。

人が生きる目的としては、その人にとっての「望ましいこと」や「不満が無いこと」を追求してく点があるように思います。

 



人によって「幸せ」は違う

辞書的な意味合いでは「望ましいこと」や「不満が無いこと」の意味合いで使われている「幸せ」という言葉。

しかしこの「幸せ」という言葉は人によって感じ方が違うようで、なんとも面白いです。

 

一つ例えを出しましょう。

僕の話を例にします。

僕は2019年10月現在、都内のホワイト企業に働いています。

待遇面は明らかにホワイトなので、友人と会社の話をした際には、必ず「ホワイトじゃん!」ということを言われます。

彼は僕の会社の話を聞いて、僕が「幸せそう」であると認識し、そして彼は彼自身のことを「不幸せ」な存在であると認識してしまうのです。

しかし僕から言わせてみれば、このホワイト企業の環境は僕には向いてはおらずに、若干の不幸せさを感じるのです。

僕は僕自身のことを「不幸せ」であると感じているわけです。

同じものでも、人によって感じ方が違うのです。

 

「幸せ」を感じられるかは、自分自身の捉え方で決まる

このように、同じ状況でも人によって「幸せ」か「不幸せ」かの捕らえ方が違うことがよくわかると思います。

このため価値観の異なる人たちが「幸せ」をテーマにして語り合ったりすると、意見が平行線のままでいつまでたっても終わらないということがよく起こります。

 

僕は実家に帰った時に将来の「幸せ」を考えて、「仕事への向き合い方」や「結婚するかしないか」でよく親と揉めます。

なぜ揉めてしまうのか・・・。

ざっくりと言うと、何が「幸せ」かをめぐって、僕には僕なりの考え方があり、また親には親なりの考え方があるからだと思います。

仕事についての向き合い方で揉めるときを例にとって、この話をもう少し詳しく解説をしていきます。

よく親と揉める部分は「正社員として頑張っていくか、いかないか」という点です。

僕はまだギリギリ20代ですが今後は今以上に終身雇用が崩壊していきます。

「正社員=安泰」という概念が保証されない時代にどんどん入っていくわけですね。

また年金などの国の老後資金も期待ができないので、正直当てにしていません。

このため老後を生き抜くためにも、早いうちから正社員という身分に頼らなくても生きていけるようなキャリアを積んでいくべきであると考えているわけです。

契約社員だろうがなんだろうが、自分の経験や糧となるのであればそれでいいと思っております。

 

それに対して親は、「時代が進んでも会社からクビを切られないかもしれないし、国も老後資金を見直してくれるかもしれないから」と、とりあえず根拠もなく正社員で頑張ることを強いてきます。

悪く言えば、現実逃避を子供に強いているわけですね。

ただしそれを悪く言うことはできません。

親は親で、自分の生き抜いてきた成功を元にした体験があるから、こういった主張を言ってくるわけですから。

それはそれで否定できる立場には僕はいません。

しかし、それを今の時代に無条件で受け入れることも難しいのではないかとも思う訳です。

ここで平行線になってしまうわけです。

お互いがそれぞれで正しいのです。

どこぞの名探偵とは違って「真実はいつも複数!」あるのです。

 

自分が「幸せ」であると感じること

ここで大切なことは「自分が幸せ!」と感じることだと思います。

さっきの親との揉め事で、もしも親の言うことをそのまま従ってしまうと、僕が思い描いていた幸せはその時点で消滅してしまうことになります。

親が思い描いてくれていた「幸せ」は、もしかしたら確かに「幸せ」の一つかもしれません。

しかし僕が思い描いていた「幸せ」の方が、僕が本来の心から求めているものです。

ここで親の意見に従って、親が思い描いていた「幸せ」を手に入れることができたとしても、おそらくはそれは心から求めていたものではなかったために、不満となって噴出してくる可能性があります。

精神的な意味でも、そして上に挙げた辞書的な意味でも、それは本当の「幸せ」ではないわけですね。

 

「幸せ」をめぐって意見が対立したときは、必ず自分の心の中にある「幸せ」を優先させてください。

また自分の思い描いている「幸せ」が他人から否定されたとしても、あなたがそれを「幸せ」であると感じていたのであれば、それは紛れもなく「幸せ」です。

なのでそれを大切にして追求していくようにしましょう。

僕はそうしています。

そしてこれからもし続けていきます。

 



「幸せ」はお金では解決しない

日本は資本主義の国ですから、一般的にはお金をたくさん持っている人の方が、そうではない人と比べて生きやすいと思います。

ですがお金をたくさん持っているからと言って「幸せ」になれるのかと言われれば、そう直結はしないと思います。

 

物欲が強いと「お金」に精神を蝕まれる

お金があると、例えばいろんな物を買うことができます。

しかしいろんな物を買いたいという「物欲」には、上限がありません

物欲が強い人はお金を持っていれば持っているほど、どんどんと高いグレードのものを求めようとしてしまいます。

高級な腕時計や車なんかを買ったりして、見栄みたいなものを張ろうとしたがるんですね。

しかし残念ながら、いくらお金をかけて見栄を張っても、上には上がいます。

物欲に財布を牛耳られてしまうと、不幸になります。

お金で「幸せ」は手に入らないのです。

 

例に出せるほどではありませんが、僕は何度も転職を重ねて、そのたびに収入がアップしていきました。

収入が上がったのだから幸せになったのだろうと、もしかしたら学生時代の自分だったら思うかもしれません。

しかし、現在の自分は違っていました。

収入が上がれば、それに応じた生活水準を送るようにはなりました。

しかしその生活水準になったらなったで、またそこでしか感じえない不満を抱いたりしてしまうのでした。

普通の20代の一サラリーマンの安月給でしょうが、おそらくは収入の数値が上がっていってもこの欠乏感を感じる理屈はそうは変わらないんじゃないかと思います。

 

お金で「不幸せ」を減らすことはできる

一方でお金で「不幸せ」を減らすことはできます。

そのことは社畜の僕でも十分に実感しています。

例えば車。

先ほどは見栄の象徴として高級車を購入しても「幸せ」にはなれない理由を説明いたしました。

しかし移動手段として車を購入するのであれば、今まで徒歩や電車でしか移動ができなかったものが、道路がある場所であれば自由に高速に行くことができるようになり、便利になります。

車のおかげで移動の「不幸せ」が減ったわけです。

そなってくると「不便(=不幸せ)」が減って、相対的に「幸せ」を感じるようになるわけです。