「いじめられている君はゼッタイ悪くない」という考え方の罠について

2019年9月12日

電車の広告で中川翔子氏(以下:しょこたん)が著者である「死ぬんじゃねーぞ!!」という本の宣伝を目にしました。

僕はその本を読んでいません。(近々買って読みます!)

しかしこの本に書かれていたキャッチフレーズが妙に心に残って離れなかったため、今回記事にすることに致しました。

 

とりあえず先に申しておくと、そのキャッチフレーズとは「いじめられている君はゼッタイ悪くない」というもの。

結論から言うと、確かに「君」は悪くない可能性が高いです。

しかしあくまで「悪くない可能性が高いだけ」です。

 



「いじめられている君はゼッタイ悪くない」

その本のキャッチコピーとしては、

「あなたの時間はあなたのもの」「あなたの命はあなたのもの」

などと、精神的に追い詰められてしまっているであろう「いじめを受けている人」の心に寄り添って励ますような言葉がならんでいました。

 

僕はしょこたんのことをよく知っている人間ではありあませんが、彼女にも過去にいじめられていた経験があることくらいは知っています。

いじめられた経験のある人が書く本であるからこそ、リアルな言葉として読者の心に響くようなキャッチフレーズを考えることができるのでしょうか。

 

少なくともいじめられた経験のない僕の心にも、「あなたの時間や命はあなたのものかぁ、当たり前だけどいい言葉だなぁ」という具合で、改めていいことを認識させてくれると思わせてくれるようなキャッチフレーズであると思いました。

 

しかしこの表紙に詰め込まれた複数あるキャッチフレーズの中でも、一つ僕としては納得の行かないものがありました。

それは「いじめられている君はゼッタイ悪くない」というものです。

これはタイトルの横に、特に目立ちやすいように書かれておりました。

確かに激しいいじめにあっており、本のタイトルにもあるように「死を検討してしまうレベル」にまで追い詰められてしまっている人に対しては、「いじめられている君はゼッタイ悪くない」というこの言葉は非常に魅力的に映るでしょう。

こういった人たちの死を抑止させるためには非常に効果的かもしれません。

 

しかし「いじめられている君はゼッタイに悪くない」のであれば、「君をいじめてきている周りがゼッタイ的に悪い」のか?

そういう解釈にもなってしまうのではないか。

僕はそう思う訳です。

 

自己評価の低下を阻止するための「ことば」

いじめらている「君」がもしも絶対的に悪くないのであれば、はたしてこの「いじめ」の原因はどこにあるのでしょうか。

「実はいじめには善も悪もなく、ただのコミュニケーションの一環であるだけなので誰も悪くありませんでした!」

そんなことをいじめに関わっている人、特にこの本の購読層である「いじめられる側」の人に説明したとしても、彼ら彼女らは納得できないと思います。

いじめをただただ受けている状態の人は、もしかしたら「いじめを受けている自分が悪いんだ」なんて自己嫌悪に陥ってしまっているのではないかと思います。

「いじめられるのは、自分が弱いからだ」とか。

状況にもよるため一概には言えませんが、共通しているのは「自己嫌悪の念」なのでしょう。

だからこそ行き過ぎたいじめは、いじめられていて自信喪失状態にいる人の自己評価をゼロ以下にさらに下げて、時には自害にもつながるような悲劇を生みだしたりしてしまうのではないかと思います。

 

このため、こういった「自己評価が著しく低下している状態の人たち」を鼓舞して自己評価を高めさせて、自ら命を絶つことを止めることを目的とするのであれば、このキャッチフレーズ「いじめられている君はゼッタイ悪くない」というものはすばらしく効果的であると思います。

 



「いじめられている君はゼッタイ悪くない」の罠

しかし解釈のしようによっては、このフレーズも時として大変な思想に向かっていってしまうのではないかというのが今回の僕の執筆動機です。

 

一見するとこのように自信喪失状態に陥ってしまった人たちを励ますための言葉にも見えるこの言葉。

しかし思想というものは怖くて、筋トレなんかと違って急に短時間で思い切った舵切りをしてしまえばガラッと真反対の向きにベクトルが変わってしまうことができます。

 

極端な思考の変化と苦しみの押し付けが心配

政治の世界では、このまえ極右政権だったものが次の選挙で極左政権に選挙で変わってしまったことは歴史上何度もありました。

第二次世界大戦直前のドイツがその典型ですね。

特に個人レベルであれば、単純なきっかけ一つで簡単に変わってしまうことができます。

非常につらいいじめを受けた経験のある人であればあるほど、その可能性は高まるんじゃないかなと思います。

 

ここでこういった人たちが「いじめられている君はゼッタイ悪くない」という言葉を受けて「よし、俺は私は悪くないんだ!」と自信を回復させるだけに留まるようであればいいんです。

政治で例えるならば、極右(もしくは極左)から中立状態になるだけですから。

 

しかし仮に何かタイミング的な事情であったり、あとはいじめや生活環境などによる人格形成が要因だったりで、「いじめられている君はゼッタイ悪くない」のであれば「いじめてきたあいつらや無視してきた周りが悪いんだ!」という解釈をして周囲への復讐に燃え上ってしまったりする可能性も考えられてしまうわけです。

このことを、僕はここで危惧しているのです。

 

この復讐心がいいか悪いかは、この時のエネルギーの使い方にもよるとは思うので何とも言えないと思います。

とにかくこういった辛いいじめを受けてきた人間が「復讐」をしたがりだすと、自分が受けたものと同じような苦しみを相手に与えたがってしまうのではないかと思います。

 

この人間の心理は僕の会社の先輩がしっかりと証明してくれています。

2周りくらい年上の先輩なんですが、彼はよく「俺が若いころはもっとつらかったんだから、お前もやれ」なんて言ってくることがあります。

おそらく多くの職場において、こういった上司や先輩はいるんじゃないですか?

そもそも2周りも年下の後輩に対して、24年分も前に感じた苦労を押し付けるってどうなんでしょうか。

人間は様々な技術を発展させて、「どうしたら不便を取り除けて世の中がもっと便利になるのか」を追求してきたはずなのに、それを「俺が若かったころと同じように苦労するべき」というなんて・・・。

彼らは時代への逆行を強要しているのです。

スマホのGoogleマップがあるのに分厚くて重い地図帳をわざわざ広げる人が今のこのご時世いるんですか?

そもそもスマートフォンという電話機の後継種的な存在が世の中に便利を提供しているのに、平野ノラが肩にかけていそうな「しもしも?」とかいって出るタイプの大型の電話を持ち歩いている人が今の世の中にいますか?

 

ちょっと話が脱線しましたが、とにかく「人間は自分が受けた苦しみや辛さ」というものを、相手にもとりたがってしまう傾向があるわけです。

「自分はこんなにもつらかったんだ、だからお前も受けろ!」

知りませんよね。

よく親が子に虐待するニュースがありますが、あれも同じで、もはやそういう文化の家系なので暴力親を子から離さなければ解決できないと思います。

「しつけのつもりだった」とかみんな声を揃えて言いますけど、そんなことを言う親自身はそのさらに親世代から今でいう虐待を受けて育った経験はあるはずです。

 

またまた脱線してしまいました。

まぁこんなところです。

「いじめられていう君はゼッタイに悪くない」のであれば「誰が悪い?・・・いじめてきたやつ、そしてそれを見てみぬふりしていた周りの奴らだ!」という過激な思想に変わらないように気を付けていただきところです。

そして僕はこの本を読んでいみたいと思います。

冒頭にも言いましたが、今回のお話は本の内容うんぬんではなく、あくまでも「いじめられている君はゼッタイに悪くない」というキャッチフレーズについての僕の見解です。

 



いじめられている側が無意識に他人や周囲を傷つけていることがある

「『セッタイに悪くない』と言われている『いじめられている側の人間』がもともともは悪かった」というケースも実際のところは考えられると思います。

 

実は僕は似たようなケースで、職場において他人に対して「いじめみたいな行為」を働いてしまったことがあります。

しかしそれには僕なりの「やむを得なかった理由」があります。

「いじめっぽいことをしなければ、自分がつぶされてしまう」ため、いわば「やらなければやられる状態」に置かれていたことが理由でした。

 

やらなければ、やられる

簡単にいうと僕が「いじめ」たその相手は「いちいち突っかかってくる人」です。

僕に対して、いちいち「自分の方が優秀である、有能である」ということをアピールしてくる人です。

便宜上、今回登場する相手のことを「Aくん」と呼ぶことにします。

 

確かに、当時僕に突っかかっていた彼(Aくん)は優秀かもしれません、しかし僕と比較してどうかということは僕にはわかりません。

多分彼自身も本当は分かっていなかったと思いますが、「願望」だけでそのように声高らかに発言していたのでしょう。

一応第三者からの評価においては、僕の方の評価が優れている声が多かったのですが(というかAくんの評価が低くて、相対的に僕の評価が高まっただけです)、それでもAくん本人はそういった第三者からの評価もかたくなに認めようとしないんですね。

第三者からの負の評価を「違う!」と言って彼は否定し、そしてその分だけなぜか僕のことを攻撃してくるのです。

 

第三者からの酷評も受けており、突っかかってくる内容もレベルの低いものであったため、僕もその気になれば簡単に貶めることはできました。

しかしそれをやってしまうとA君との不毛な争いが引き起ってしまって、むだに心が擦り減るだけだと判断した僕は、まずはいったんその突っかかりを受けることにしました。

 

ですがA君による僕への突っかかり行為は、日に日に僕にストレスとして蓄積されていき、ある夜は眠れなくなってしまったことを覚えております。

夜、布団に入ってもアドレナリンが溢れていて、全然落ち着くことができないんですね。

睡眠が満足にとれないとなると、日常生活に支障が出てしまうことが危惧されます。

その時に「このままではマズい!」と感じました。

僕はAくんからの突っかかり行為をはねのけるために、彼の言動を抑制させることにしました。

 

自衛のための「いじめ」

しかし第三者からの評価を「うるさい」と一蹴して聞き入れないA君です。

プライベートでは牛丼チェーン店の松屋で問題を起こして出入り禁止になっているそうです(しかも2店舗)。

契約している賃貸マンションの管理会社からもなにかとイチャモンをつけて慰謝料を貰ったとか貰ってないとか(以前、ドヤ顔で語ってました)。

そんな彼ですから、ただ話を聞いて抑制させようとすると、つまり僕が優しく接してしまうと付け上がってくるわけです。

実際、最初のころはそれで見事に彼のペースに飲み込まれてしまいました。

 

困った僕は、言い方が悪いかもしれませんが、彼のことを「つぶす」ことにしたんですね。

彼の嫌がることを言いまくるというか。

幸いにも、彼はなぜか知りませんが自分が言われて嫌なことを「相手も言われて嫌に違いない!」と考えているらしく自分からポンポンと口にする人だったので、それをそっくりそのまま使わせてもらうことができました。

 

例えばですが、A君は僕に対して「お前はADHDだ!こうこうこういう理由で、間違いない!」といきなりいってきます。

それをそのまま僕は使わせてもらいます、「A君もADHAだろ!」みたいな具合ですね。

本当に小学生の口喧嘩みたいですが、これがA君には効果抜群なんですよ。

もう本当に子どものいじめと同レベルです。

 

これを行ったことでか、Aくんから僕への「突っかかり行為」はゼロにはなりませんでしたが、しかしだいぶ穏やかにはなりました。

この経験から、すべてのいじめは「いじめられている君はゼッタイに悪くない」という断定は同意しかねる僕がいます。

僕はAくんに対して「いじめ」という反撃を行わなければ不眠に悩まされてしまっていたでしょうから。

 

「いじめ」を働かせないと自分がつぶされてしまうことがあるのです。

 

 



まとめ

「いじめられている君はゼッタイに悪くない」というのは、僕からすると嘘です。

なぜならば僕には他人を「いじめ」たことで不眠に悩まされていたことから解放された経験があるからです。

僕に対してやたら突っかかってきたA君。

彼に対して僕は「いじめ」という防衛を行っていなければ、自律神経が乱れてしまって今頃どうなっていのか分かりません。

 

ただし、多くの場合では「いじめられている君が悪くない」という場合が圧倒的に多いと思います。

僕はいじめを推奨はしておりません。

その点だけはしっかりと明記させていただきます。

 

また、いじめられていることに思い悩んでいることが、命をつなぎとめるための言葉としてであれば、今回の表題の言葉は非常に勇気をもらうことができる魅力的なフレーズであると思います。

しかし何かの折に触れて、「逆襲のフレーズ」にならないように気をつけていただきたいと思います。

 

●今回のまとめ

「いじめられている君はゼッタイに悪くない」について

→「ゼッタイ悪くない」は言い過ぎ、「高確率で悪くない」という表現がベストだと思う。
( いじめざるを得ない状況というものが存在するため。 相手をやらないと自分がやられる )

しかしこのフレーズは、自己評価が著しく低下している人たちの自己肯定を促す上では非常に効果的であると思う。

!!ただし行き過ぎると危険。復讐心の促進につながる可能性を危惧しておくべし!!